卒業した年に小生のクラス(D組)の同窓会があったという。昭和35年(1960年)のことだ。


小生の記憶には、そのことについてはない。札幌のすぐそば、小樽に居たので、お呼びがかかれば出席したはずだ。


まあ、その頃は、シャイだったのだが。


小学校や中学校の同窓会、同期会には、よほどのことがなければ、ほとんど出席している。それは、さておき、高校の同期会、同窓会が開かれたということも聞かないので、50年ぶりの同期会出席ということだ。


ここ、この同期会の幹事の片隅に名を連ねてきたので、催されるまでの一部始終に携わることができた。


そして、総勢53名の参加が得られた。何人かが、別途会場の定山渓温泉に向かっている。

大部分の参加者は7月6日札幌NHK会館前で集合した。次々に現れる人人。


昔の面影を残しているのだが、名前を思い出すことができない。


そんなでも、一度名乗りあえば、一瞬にして50年前に戻っていく。


この興奮が、会場の定山渓温泉・花もみじで、また一段と大きくなったのだ。


1次宴会、2時宴会そして3次会へと続き、深更を迎えていた。


話したりない思いを胸に、それぞれの部屋へ戻り、眠りについた。


朝食の後、花もみじ玄関前で、夕張を巡るグループとここで札幌へ戻るグループとに、分かれた。名残惜しい。



夕張は、財政再生団体となって、国の管理下にある。


小生たちの住んでいたときには、炭鉱がつぶれるということなど念頭になかった。当たり前だ。国策で保護されていたのだから。


国の政策で炭鉱があっさり切り捨てられた時、炭鉱で栄えた街は、すべて消滅する運命にあったといえる。


消えた街、細々と生きながらえている街といったイメージが強くなる。


炭鉱町の中で脈々と育まれていた同胞意識は、炭鉱町が消滅しても、決して消えない。かえって猛然と燃え盛っているようにも感じられる。


小生の胸rの中にも、それはある。何ができるのか。


夕張の街を巡る旅が終わりを告げた。生まれ育った街の家が消えて、原野化しているところもある。


それぞれが、深い感慨を胸に、次の再会を期待しつつ、家路につくこととなった。


この興奮は、まだ消えていない。